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仲卸/小売/八代目 佐野孫右衛門

四代目 佐野 孫右衛門 (米屋 喜与作)
佐野 孫右衛門の歴史
Magoemon Sano`s History
天明創業(1781ー1789年)
佐野孫右衛門とは江戸時代より
続く世襲名である
240年以上続く歴史
元々は屋号 米屋(糀屋)として
新潟県寺泊にて孫兵衛が創業
その後、廻船業(北前船)で海産物を中心に
蝦夷地との貿易を開始
日本海を駆け巡り商圏を
北は北海道釧路市、
西は山口県下関まで海路で拡げた
その後、戊辰戦争の際は新政府軍を後方支援し
貨物、兵士の運搬輸送等を行った
蝦夷地開拓の任を受け、樺太、石狩湾を開拓し
1805(文化2)年
釧路場所請負人となる
(厚岸,昆布盛,仙鳳趾,釧路,白糠,川湯等)
1865(慶応元)年
箱館で米価が急騰して住民が困窮を
極める状況になった際、
4代目は自分の米蔵を開いて半年の長きに
わたって粥を炊き住民へ施しを
行ったといわれている。

昭和初期 釧路市南大通

七代目 佐野 孫右衛門 (佐野 貞作)
この年、幕府にも2000両
(今の3億円)を寄贈し混乱期における
幕府の施策を援助している。
これにより4代目は苗字帯刀が許され
佐野を名乗ることになる。
そのほか、公益のため
多くの私財を提供もしている。
(主要道路,生活インフラを構築)
その後、戊辰戦争の際は
新政府軍を後方支援し
貨物、兵士の運搬輸送等を行った
1871(明治3)年には奥州や
函館から漁民を募り
174戸637人がそれに応じる。
彼らは釧路、昆布森、
仙凰跡にそれぞれ移住。
その家屋、漁具の一切は4代目が
私費で与えたものだ。
当時の釧路は未開の地で、
病になっても医者がおらず、
治療を施すことができなかった。
4代目はそれを憂い、医師を釧路に招いて開拓者を無料で治療した。
また子弟の教育にも熱心で、
僧侶を招いて教えを説くとともに、寺子屋で子どもの教育にあたらせた。
このような心配りに、移住してきた人々は深く感謝し、
4代目への忠節は高いものになった。
翌年は釧路市街の開拓に取り組み、
橋梁や渡船場を建設して
通行(行旅)の便をはかった。
2万円(今の4億円)の私財を投じ、
市内に長さ7町(730メートル)、
幅4間(7.3メートル)の道路を開削。
市街地としての体裁を整えた。
移住者たちは4代目の屋号をとって
米町と名づけた。
釧路で初めての町ができたのだ。
住民の借金1万2000円
(今の2億4000万円)を免除して、
昆布の干し場を無償で提供した。
1879(明治12)年には
釧路・白糠・厚岸で100カ所以上の
漁場と農場を開発している。

八代目 佐野 孫右衛門
代表取締役社長 中村 謙斗

1878(明治11)年
4代目は釧路川上郡跡佐登
(あとさぬぷり)の
硫黄鉱採掘の許可を得て
(川湯、硫黄山)
その事業に取り組んだ。
硫黄の運搬のため釧路から
硫黄山に至る27里(80キロ)の
道路を整備し、住民および
作業員の便を図った。
(権利を買い川湯、硫黄山の開発を行った)
1880(明治13)年
病のため弟の儀一郎に
5代目を譲るが
彼は間もなく病没。
その息子が後を継いだ。
その子はまだ5歳の幼児である。
4代目は病身を鞭打って
家運を戻そうとするが、
もはやその力は失せていた。
1885(明治18)年
佐野家の経営が不振になると
硫黄鉱山は銀行家の手に移る。
佐野家の債務は
その後、北海道庁によって解消されるが
4代目の病気は重く
1889(明治22)年9月
50年の生涯を閉じる。
その後、系譜は六代目、七代目と繋がれ
昭和15年(1940)七代目が
亡くなった後
戦禍もあり佐野孫右衛門の
世襲が途絶えた。
しかし
令和2年(2020)コロナ禍を機に弊社代表、
中村謙斗が血縁を引く者として
八代目 佐野孫右衛門を
世襲した。
*本来であれば十三代にあたる
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